たきちゃん #3

たきちゃん #2 - シーラカンスは夢を見ている

 

「とりあえずハイボールで」

「じゃあ私も同じでお願いします」

平日六時半の居酒屋はまだ混んではいなかった。遠くの席のまばらな笑い声と揚げ物と煙草のにおいが混ざって、ゆらゆらと揺れていた。

僕たちはスカイツリーを出たあと浅草を一通り観光した。スーツ姿で浴衣の外国人観光客とすれ違うのはなんとも不思議な気分だった。

夕方陽が傾いてきたころ、駅前の居酒屋に入った。アルバイトの女の子は窓際の席に案内してくれた。荷物を降ろしコートを脱いでふと外に目をやると、人力車が信号が変わるのを待っていた。

たきちゃんは注文のタブレットをスワイプし、これがいいな、こっちも食べたいな、と呟いていた。不思議な魅力のあるひとだった。どこか他のものとは輪郭の描かれ方が違うような、滑らかな存在感があった。そしてそれ以上に、強気で負けず嫌いな純粋さを兼ね備えており、殊に創作においては並々ならぬこだわりを持っていた。わたしは身体が丈夫じゃないから、もっと強くなりたい―。口癖のように繰り返していた。白い肌の内側に秘めた矜持が、雪原を舞う鳥のように彼女を突き動かしてきたのだろう。僕がぼーっと外の信号が変わるのを見ていると、視界の端のたきちゃんが僕に気づかれぬよう何やらゴソゴソ動いていた。そのままの体勢で様子を伺っていると、薬を飲んでいたのが分かり僕は少しかなしくなって、そのまま歩始めた人たちを眺めていた。

一杯目が運ばれてきた。グラスが鳴り、氷が鳴り、喉が鳴る。

「たのしくお酒が飲めるのはほんとうに久々!な気がする!おいしい!」

たきちゃんはえらく上機嫌で、にこにこしている。もう一度、グラスを口に運ぶ。僕もつられる。炭酸の風に乗ってウイスキーの香りが全身に染みるようだった。気が付くと美しいオレンジの夕暮れは終わり、暗くなり始めていた。

その日はたくさんの話をした。好きな音楽の話、好きな友達の話、一番よく覚えているのは、たきちゃんの海のはなしだった。熱っぽく語ってくれる彼女の目は、未開の地を求める冒険家のように洗練された野心を宿していた。

「今の職場はすごいストレスが溜まってね、わたしは精神的な崩れが体調に出やすくてさ。これまではそれを自分の作品に昇華するのが捌け口になっていたんだけど、最近それもできないくらいに弱っちゃった時期があってね。感情やアイデアは頭の中でどんどん生まれてくるのに、それをゴミ箱に投げ捨てるしかないのが悔しい。もっと強くなりたい。もっと大きな手だったら全部受け止められるのに」

もどかしそうに話すたきちゃんは悲しいほど美しくて、僕は愚かしいほどに憧れを抱いてしまっていた。

「たきちゃんは強い人だよ。心が強いし、手は小さくても暖かい。俺からすると、今こうやってはなしを聞いていること自体、映画みたいなんだ。新幹線乗って、東京まできてさ。ローマの休日みたいにいろんなものを一緒に見て、楽しかったし。身体が丈夫じゃないとしても、たきちゃんのこころの世界は強くてきれいで、好きだ。でも無理だけはしないでね。どうしようもない時は、俺が捌け口になるから」

「心配しないでよ。すぐ死ぬみたいな病気じゃないんだし」

たきちゃんは困ったように笑った。

「もしたきちゃんが死んだら、今日のこと詩にでもしてやるよ」

「じゃあわたしも書くからしばらくは生きてるね。みんなそうやって知らないうちに詩になってるし、音楽になっているのかなあ」

たきちゃんはもっと困ったような楽しそうな笑みを浮かべ、それから世界中の詩と音楽に思いを馳せていた。僕も同じように想像した。これまで人類はどれだけの歌を作り、思いを残そうとしたのだろう。時代も土地も違う少年も、同じように名も無き歌を書いたのだろうか。いまはもう誰の耳にも届かないと思うと、少し悲しくなる。

「世界中どこでも気持ちのあり方は変わらないのかもね。土地も環境も宗教も違っていても、内在しているものは同じというか」

「そうかもね。でもわたしはもっと深いところまで行きたい」

「深いところ?」

そう、もっと深く、と言うと、たきちゃんは深呼吸するように何杯目かのハイボールを飲み干した。頬はうっすらと赤みを帯びていた。

「わたしは手を伸ばしていたいの。どんどん深く潜って、海の底まで行きたいの。普通の人と同じ海だったら普通のものしか作れないでしょ。だからわたしは海が好きなの。海の底にはなにがあると思う?あくまで観念的な話だけど」

少し考え、分からないと首を横に振った。

「海の底には今までのすべての感情や記憶が漂っているの。それこそ、誰かの作った詩も音楽も、魚の涙だって、全部。その中にシーラカンスがゆらゆら泳いでいるんだ、何億年も前からね。私の知らない海の底で、シーラカンスはそれをみんな食べて、夢の中で再生するんだ。シーラカンスは夢を見ている。だから私はシーラカンスが好き。会ってみたい。」

そこから先もずっと海について、それも観念的な豊かさと神聖さを湛える海について話してくれた。アルコールも手伝って、たきちゃんはお魚になりたい、と繰り返していた。小さい頃読んだおとぎ話のようで、僕はすっかり魔法にかかったようだった。じゃあ今度会うときは魚を見に水族館でも行くか、と言うと、たきちゃんは、分かってないなあ、と頬を膨らませた。

「ちゃんと海を見に行こ。インスタントカメラとお菓子持ってさ。魔法ってほんとうにあるんだよ。一緒にそれを見よう」

そういっていたずらっぽく笑った。