思い出すことなんてないね

 

自分の話をするのが苦手だ。

 

なんとなく劣等感みたいだ。

 

 

たとえば、大学時代の体験をもとにして気の利いたジョークのひとつも言えればいいのに、といつも思う。

そんなときに思い出せるのは、本当に断片的な記憶しかない。

高速バスから眺めた遠くの山の緑とか、卑怯にも利口にもなり切れなかった後輩の泣き顔とか、見て見ぬふりした陰湿さとか、本当にくだらないものだ。

時間をかけて、文章に起こすのですらこんな具合だ。

ほんとうに、くだらないな。まるで他人のことのようにすら、感じる。

そんな時、つまりはたとえば今日のような日は、いつも劣等感のようなもやもやした気分を抱いてしまう。

誰かが歌っていたけれど、

「全ては今に繋がってるけど、別に今が全てじゃない」

だとしたら、私はどこから来たのだろう。どこに向かえば良いのだろう。

 

 

 

 

おしゃべりな人は、すこし羨ましい。

程度の差こそあれ、金を授かるのは沈黙ではなく雄弁の方だ。と思う。

 

 

今日は職場の同期の女の子と飲んだ。いつだったか、ツイッターでちょっとばかり騒いでいたから、もしかしたら記憶にある人もいるかもしれない。

 

町田の居酒屋だった。あの街はいつもおやすみプンプンのプンプンになったような気分になる。愛子ちゃんの幻影を探している。

彼女は自身のことについて、沢山話してくれた。自分語りって、楽しいから、と、笑っていた。僕は相槌を打っていた。

家のこと、兄弟のこと、好きな食べ物のこと、悲しかったこと、辛かったこと。自己開示されて、許されたような気持ちになった。次に自分と比べて、頼りなくなった。僕は相槌を打って笑った。

 

自分でちゃんと話したのは、いまの生徒たちがどうすれば成績が上がるか、ということだった。

今、の話題なら話せた。

 

 

 

 

きっと誰かは、こんな文章を読んだとて、気持ち悪い自分語りに浸ってる奴、くらいでしか見ないだろうけれど。

 

 

 

きっと、私の思い出の中に残っている人が少ないから、過去のことがうまく話せないのだと思う。

あるいは、起伏の乏しい生活だったから、かもしれない。

劇的なことなんてない。

例えば誰かは初の野外フェス出演、例えば誰かは憧れの先輩と上手く行きそうで、例えば誰かは誕生日で、そんな例えば、は無限に転がっている。

 

今日も劇的なことなんてない。

終電の小田急線、爆音で音楽を聴いていた。