月、タバコ、贖罪

帰りの電車。各停。急行と待ち合わせをする。

イヤホンで、Fear, and Loathing in Las Vegasを聴いていた。サブスク解禁されたばかりだ。CD音源をウォークマンに入れていたが、iPhoneで音楽を聴くようになってからはすっかり離れていた。

すこしだけ懐かしい。シンセで爆音であんなことやってたら、確かに中毒性はすごい。

ぼーっと聴いていたら、乗り換えたかった急行が目の前から夜の中に流れて消えていった。ホームのアナウンスが聞こえないのは、イヤホンの致命的な欠陥だ。

 

 

 

各停の電車は、生真面目に一駅ずつたどってく。

僕の家の最寄りは終点だ。ぼーっとしてても、アナウンスを聞き逃しても、とりあえずは乗り過ごすことはない。

エスカレーターで登る。

前の女の人が、あの人が選びそうな服を着ていた。流れ落ちる風に乗って髪の匂いが微かに漂った。なんとなく、追い越してふと振り返り顔を見てみたいような衝動が、むくりと泡立つ。ちょうどタイミングがずれる。視線は人波に閉ざされ、みることは出来なかった。

 

 

 

雨上がりのコンクリート。特有の匂いがまだ残ってる。匂いというのは、五感のなかでも特に記憶と密接な関わりがあるらしい。

雨の日のコンクリートから連想できる気障ったらしい記憶のひとつでもあればいいけれど、生憎そんなものはない。

いや、たぶん、あるのだろうけれど、そしてこれを書いている今になってみれば確かにあるのだけれど、肝心な時に思い出せない。

前の方に、歩きタバコのおっさんが見えた。

昼間の通学路ならともかくとして、真夜中の細道では、彼へのイラつきは起こらなかった。彼はゆっくりした歩調だったので、僕は彼の宙に浮かべた足跡を潜るようにして、追い越した。

 

 

月が薄く曇りかかり、ぼんやりと曖昧に光っていた。やけに明るいように思えた。

僕はタバコを吸わない。でも、なんとなく、タバコを吸いたくなるときの気持ちはわかるような気がしている。

いつの間にか、あの人のことを考えていた。LINEしようかな、と思った。あの人は私にとても良くしてくれる。この間の他愛ないやりとりを、丁寧に思い返した。軽いものほど、すぐ浮かんでくるようだ。水中と同じだ。

考えごとをすると歩みは遅くなった。誰かが僕を追い抜かし、角を曲がって消えていった。人気はなくなった。

でも、何か伝えたいことがあるのか考えてみると、何もないことに気づいた。空っぽだ。何もない。そう思うと、こんな風に誰かを特別に思う気持ちも、タバコの煙のようにふっと消えてしまうものに思えた。

想像でしかないが、こういう気持ちのとき、タバコを吸うのが正解な気がする。

ふっと灯された火で、立ち昇って消えてしまいたい。他愛のないことのほうが、すぐ浮かんでゆくのだ。

結局のところ、何も持たないままでいる自分を、許して欲しいだけなんだろうか。そんな気がしている。泣いてしまっても、不満を語っても、許される。その触媒がLINEであったり、タバコであったり、世界を閉ざすイヤホンであったりする。

家に帰ってきた。朝に食べ残したカレーが、台所のシンクに置きっ放しになっていた。スプーンには米粒がこびりついている。窓を開けて濁った空気を追い出す。

換気扇の下の灰皿は、新品のままだった。