熟慮は時に短慮以上の愚行を招く

感情の環境依存性と言えばいいのだろうか。

怒りであれ悲しみであれ、感情は例外なく外的要因から形成される。

自分の内側から、つまり心だったり、精神だったり呼ばれるそこから滲み出ているように感じるが、それは勘違いだ。心は自分の中には存在しない。

感情の発生に対して、我々は何も介入することは出来ない。

出来るのは、その感情に対しての受け止め方を考えること、受け止めるものを選択するすることだけである。

 

単純な話だ。何もない状態でいきなり喜び出す人はいない。美しい歌を聴いて初めてそこに感動が生まれる。美しい歌が纏っている感動の種子のようなものを受け取るだけだ。

もう少し踏み込んでみると、感情の選択を迫られる場面が存在する。我々はそんなに器用ではないので、未分化の感情は確実に存在している。手付かずのままにして名前もない状態で置いておくのか、それともどれか1つを抽出してそれに要約するのか、または複数の感情を共存させるのか。

例えば、飛行機が墜落する事件があったとして、あなたの恋人は助かり、あなたの両親は不幸にも亡くなってしまったとしよう。助かって嬉しいだろうか。戻って来ないと悲しく思うだろうか。どちらかに偏る場合もあるし、共存もする。どちらでもなく、混ざり合ったままの場合もある。

実際の我々の生活はこんな分かりやすい事例よりは、もっと些細で重層的な出来事にあふれていて、その度に無意識の領域で感情も、環境依存性ゆえに重層構造を持つのだと思う。

 

なぜこのような話をしているかと言うと、これまた単純な話で、

私が誰かを好きになったとき、「この人が好きだ」という選択を行なっているという事実を認識しなくてはならないからだ。意識的であれ、無意識であれ、このステップというのは確実に存在している。

選んだ以上、そこには一定の責任を持つべきだ。背後には、選ばなかった無数の選択肢がある。言ってしまうと、ありもしない未来と、あったかもしれない未来があり、そこには弔いの歌を歌う人が存在しているのだ。私が殺した選択肢だ。そこにはまた、必ずほかの誰かの感情も付随している。

 

誰かの感情を、好意を殺してまで、ほかの誰かを好きになったのなら、腹をくくるしかない。

大袈裟にいえば、恋愛してる奴なんてみんな殺人者なんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

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